K−1の衰退からキックボクシングを読み解く

キックボクシングとは、なんだろうか?

この疑問を僕は持ち続けている。そこで日本で始まったと言われている、K-1から改めてキックボクシングを読み解こうと思います。

日本人空手家の3人が、ムエタイと対抗戦をしたのは1964年。

そこから日本でキックボクシングという名前で興行が開催されたのは、1960年代後半と言われています。

1960〜70年代には、テレビ局が一つの団体に一局がつき放送され一時的なブームになったと言われています。

そんな中(だいぶ時代が飛びましたが)、1993年に 【K-1 GRAND PRIX’93】 が代々木第一体育館で開催されました。

K-1誕生

K-1を創ったのは、石井和義正道会館館長です。

「アンディ・フグの生涯」より

石井和義館長が監修し、後のK-1のプロデューサーになる谷川貞治氏が執筆した本、「アンディ・フグの生涯」でこう語っています。

石井館長は生産性のない「武道」を、生産性のあるものに変えるための抜群なプロデュース能力を持っていた。

K-1のKとは、カラテ、キック、ケンポー、カンフーといった立ち技格闘技の頭文字である“K”からとり、[K-1]とはそのKの真のチャンピオンをトーナメントで決定しようという企画だった。格闘技は、空手界もそうだがキックボクシング もいくつもの団体に分かれており、世界チャンピオンと呼ばれる人間がこの世に何人も存在した。では、本当に一番強いのは誰なのか。それをファンの前でハッキリさせようと、優勝賞金10万ドルを賭けてトーナメントを開催したのである。

ここで谷川氏は、K-1のルールをつくるにあたる背景も述べています。(以下)

ルールは、グローブをつけて顔面攻撃を認め合う、ほとんどキックボクシングに近いものを採用した。やはり、プロとして顔面を殴り合う必要があったし、グローブは立ち技格闘技の共通言語であることがわかった。グローブをつけて顔面を叩くルールにすれば、どんな立ち技格闘技も参加しやすかったのだ。しかし、ムエタイやキックボクシング にある肘打ちは反則にした。ヒジ打ちは流血しやすく、石井館長はそれはブラウン管スポーツにふさわしくないと考えたからである。

世界展開していったK-1

K-1は、1993年の初開催からイベント規模はどんどんデカくなり、2002年には多くのイベント世界各地で行なっていきました。

【K-1 10年の軌跡】より

日本では、東京ドーム、ナゴヤドーム、大阪ドームの3大ドーム大会を成功させに地方で興行を展開していきました。

一方で世界では、アンディ・フグの故郷であるスイスを皮切りに世界各地で興行を行い、K-1のブランドを日本発世界的ブランドに展開しようとしました。

【K-1 10年の軌跡】より、(赤い文字は海外で開催した国)

  • 1993年3大会:(代々木第一体育館、日本武道館、両国国技館)
  • 1994年4大会:(日本武道館、代々木第一体育館、横浜アリーナ、名古屋市総合体育館レインボーホール)
  • 1995年7大会:(日本武道館、代々木第一体育館、横浜アリーナ、後楽園ホール、名古屋市総合体育館レインボーホール(2大会)、スイス(アンディ・フグの故郷)
  • 1996年6大会:(横浜アリーナ(3大会)、名古屋市総合体育館レインボーホール、大阪城ホール、スイス(アンディ・フグの故郷)
  • 1997年6大会:(東京ドーム、横浜アリーナ、マリンメッセ福岡、ナゴヤドーム、大阪ドーム、スイス(アンディ・フグの故郷)
  • 1998年9大会:(東京ドーム、横浜アリーナ、マリンメッセ福岡、ナゴヤドーム、大阪ドーム、代々木第二体育館(2大会)スイス(アンディ・フグの故郷)、ラスベガス
  • 1999年10大会:(東京ドーム、有明コロシアム、横浜アリーナ、マリンメッセ福岡、名古屋市総合体育館レインボーホール、大阪ドーム、代々木第二体育館(2大会)、北海道真駒内アイスアリーナ、スイス(アンディ・フグの故郷)
  • 2000年21大会:(東京ドーム、後楽園ホール、長崎県立総合体育館、北海道立総合体育センター、宮城グランディ21、有明コロシアム、横浜アリーナ、マリンメッセ福岡、名古屋市総合体育館レインボーホール、大阪ドーム、スイス(アンディ・フグの故郷)、オースラリア、イギリス(2大会)、イタリア、ドイツ、ベラルーシ、ラスベガス、クロアチア、南アフリカ、チェコ
  • 2001年21大会:(東京ドーム、松山市総合コミュニティセンター体育館、宮城グランディ21、さいたまスーパーアリーナ、横浜アリーナ、マリンメッセ福岡、名古屋市総合体育館レインボーホール、アクアドームくまもと、大阪城ホール、オランダ、オースラリア(3大会)、デンマーク、ウクライナ、プラハ、イタリア、ドイツ、ラスベガス(2大会)、南アフリカ
【K-1 10年の軌跡】より
  • 2002年25大会:(東京ドーム、日本武道館、有明コロシアム、静岡グランシップ、代々木第二体育館、名古屋市総合体育館レインボーホール、広島サンプラザ、富山市総合体育館、マリンメッセ福岡、大阪城ホール、さいたまスーパーアリーナ、ニュージーランド、ラスベガス(2大会)、南アフリカ、フランス(2大会)、ウクライナ、イタリア、クロアチア、スペイン、イギリス、コロラド州(アメリカ)、オランダ、オースラリア

K-1がブームを作れた理由

ブームを作れた要因として一番大きなのは、テレビ局の力ではないか。と谷川氏は、K-1の権利を売却したのちに書いた「平謝りK-1凋落の本当の理由」で述べています。

ここが重要なのですが、この第1回のK-1は、まだ石井館長自身が100%手掛けたイベントではなかったのです。それはどういうことかと言うと、まずはスポンサーを集めたのはフジテレビ、チケットを売ったのもフジテレビ、広報をしたのもフジテレビ、当日の会場の設営や運営を手伝ったのもフジテレビ。つまり、石井館長は実務としての実行部隊を天下のフジテレビにやらせているんです。

K-1は、テレビ局がチケットを売り、宣伝しスポンサーを取る。試合中継だけではなく、バラエティにも選手を出演させる。こんな環境が整ったら、他はグゥの音も出ない。むしろ、90年代の後半からは、格闘技界がこぞってK-1に集まり始めたのです。

K-1は、1993年にフジテレビが放送したのに始まり、1998年には日本テレビと組みK-1 JAPANシリーズを開始、2002年からはTBSと組みK-1 MAX  シリーズ(中量級)を開始しました。

2002年に、石井和義館長に代わりに谷川貞治氏がK-1のプロデューサーになりました。

谷川氏は、K-1の運営についてこのように語っています。

「平謝りK-1凋落の本当の理由」から引用

僕が格闘技をプロデュースする時、いつも何から考え始めるかというと、それはメディアなんです。フジテレビに放送してもらうにはどうすればいいか?日本テレビに放送してもらうにはどうすればいいか?TBSに放送してもらうにはどうすればいいか?それをまず考える。最初にテレビをつける。放映権料をもらえればさらにいい。テレビのゴールデンタイムに放送してもらえば、自然とスポンサーが付くし、視聴率を取るためにテレビ局はたくさん宣伝するから、お客さんも集まってくる。発想がまったく逆なんですよね。まずメディア有りき。最初からテレビ局の人と共犯関係を握るんですよ。極論すれば、メディアのないイベントは、僕はやらないです。赤字が出るだけですから。

このことゆえに、K-1は、視聴率を取るため、競技性を度返ししたイベントになっていったのです。

2003年〜2011年までK-1の歴史は割愛させていただきますが、のちの2012年1月30日に「K-1グローバル・ホールディングス社」という会社にK-1の商標は売られました。

追い討ちをかけるようにファイトマネーの未払いにより「ゴールデン・グローリー」(数多くのK-1選手が所属していたチーム)に提訴され、二度の裁判が行われたのちK-1を運営していた、株式会社FEG(Fighting & Entertainment Groupの略称)は、2012年5月7日に破産手続きを開始しました。

振り返ってみるといかがでしょうか?

なぜ私がK-1というプロモーション団体をキックボクシング の代表としてあげているのか。

それは、K-1がキックボクシング の上位概念として存在していたからです。

【K-1 10年の軌跡】より

2002年、TBS系列で放送が始まったK-1 WORLD MAXにおいて、魔裟斗選手を筆頭に日本人キックボクサー達が世界と戦えるフィールドができていきました。ルールは多少異なったが、K-1というブランド力は中量級のキックボクサー達を魅了したに違いありません。

メディアと共存しつくりあげていったK-1は、イベントを行う権利は失いました。しかし、人の心にはテレビで観ていたK-1の華やかさは残りました。

そして、K-1をテレビで見た人は、K-1に夢を持ちました。

谷川氏は、「平謝りK-1凋落の本当の理由」の冒頭でこのように書いています。

格闘技っていつも数十年で姿を消してしまいます。すごい隆盛があったかと思えば、奈落のそこに落ちたり、その繰り返しでした。サッカーとか野球は、低迷する時期はあっても、ジャンルはなくならない。僕がいうのも、恥ずかしいけど、僕はK-1というジャンルをそこまで持っていきたかった。その環境も整っていたはず。やろうと思えば、出来たはずです。それが本当に悔しい。だから、「K-1がどこで間違ったのか?」ということを、今後の格闘技界のいい教訓にしていただきたいと思っています。

K-1の衰退から学ぶことが多いのは、キックボクシング 界ではないでしょうか?

1960年代後半から1970年代前半にかけて日本においてキックボクシング は第一次の隆盛をむかえました。

メディアは、キックボクシング を取り上げる。

そして、キックボクシング の認知が広まる。

選手は、試合でベストなパフォーマンスを発揮する。

キックボクシング のプローモーションはイベントを整える。

チケットを買ってきてくれた人たちは、応援している選手たちの試合をみて何かを感じる。

色々な人たちがいるから、選手たちは試合ができます。

キックボクシング の上位概念として存在した、K-1は未来に残すためには何かできたのではないでしょうか?

まとめ

  • K-1はキックボクシング の上位概念あるいは、新しい格闘技のジャンルを生み出した
  • K-1が、隆盛したのはメディア(特にテレビ局)の大きな協力があったから
  • K-1が、衰退したのは競技性を度返したメディアに映える試合を組んでいったから

参考文献

平謝りK-1凋落の本当の理由:谷川貞治著

K‐1 10年の軌跡―K‐1オフィシャルブック :格闘技通信特別編集

アンディ・フグの生涯:谷川貞治著、石井和義監修