天才キックボクサーの見えなかった足跡 前編

僕がここまでキックボクシングにこだわり続けているのは、
一人の天才キックボクサーの影響があるのかもしれない。

僕は、彼と幼少期に出会い、中学生活という人生の中でもっとも多感な時期を共にした。
彼は、いじめっ子気質で、ずる賢くこく、野性的感覚を持っていた。
しかし、その反面とても素直で優しく多くの大人達にかわいがってもらっていた。

彼より強くなりたくて、一緒に練習していたチームを、僕は離れた。

その人は、晴山翔栄(はれやま しょうえい)。
彼は、ジュニアキックで圧倒的な強さを誇り、
WMFアマチュアムエタイ世界選手権で金メダルを獲得。
高校一年生でKー1甲子園を制覇。
プロ転向後、新日本キックボクシング連盟ライト級のチャンピオンになった。

しかし、チャンピオンになった試合を最後に現役選手を引退した。
理由は、その試合での打撃のダメージによる外傷性硬膜化血腫だった。

今回は、「彼にとってのキックボクシング」と「選手引退後の今」を、
前編と後編に分けて、書いていこうと思う。


出会い

翔栄が、空手を始めたのは、紛れもなく父の影響だった。
晴山塾(せいざんじゅく)の塾長を務める父を持つ翔栄は、3歳の頃に空手を始めた。

父と兄・雄大(のちのKー1甲子園初代チャンピオンであり、新日本キックボクシング連盟フェザー級王者)は、夕方になると、荷物を支度し空手着に着替え車に乗りどこかに出かけて行った。

それを見ていた翔栄は、どこか面白そうなところへ行くのかと思い、彼らについて行ったそうだ。

そこには、空手着を着た同年代の子供達からその親まで多くの人達がいた。

彼は、話す。
「最初は、空手着を着て、周りの大人に遊んでもらっていたんだよね。」

初めて試合に出たのは、6歳の頃。
その試合で負けた翔栄は、その試合から1年ほど試合に出なかったそうだ。

同時期に、塾長である父は自宅に、パンチングボールを購入した。

このパンチボールは、打ったらバネの力で跳ね返ってくるものであり、幼い翔栄の好奇心を刺激した。

翔栄は、このパンチングボールを使い自ら練習をするようになったという。

今となって考えてみると、
翔栄の天性の目の良さと反応の素早さは、このパンチングボールの練習とともに作られたのかもしれない。

日々

天才キックボクサー・晴山翔栄
(翔栄自らの自己紹介)

翔栄は小学校低学年から、月に2回〜3回試合に出場した。
しかし、当時の晴山塾には同年代に強い子がいて、遠征試合などの選抜選手には選ばれなかったりなど、悔しい思いもしたそうだ。

当時の晴山塾は、放課後の小中学校の体育館、市民体育館が運営する柔道場や剣道場で練習が行われていた。

練習は、空手の基本突きと蹴り、そのほかにも型が行われ、
グローブ空手・キックボクシングの試合に出場する子供達は、ミットの持ち合いや約束組み手を行っていたそうだ。

練習の最後に行われるスパーリングでは、体重の軽い子供たちから準備をし始め、塾長が同じくらいの体重の子供達をマッチメイクする。

塾長に呼ばれた子供達は、1分間〜2分間スパーリングをする。

このスパーリングが、晴山塾の強さの秘訣だったのだろう。

翔栄が小学校低学年を振り返ると、
「同年代の子供たちと行われるスパーリングでは、泣かされていた。」と話す。

大会に出場しても、他のジムにライバルがいた。
その子とは、階級がほぼ一緒だったため、同じトーナメントになった。
決勝で戦うことが多く、合計で10回以上試合をし、勝敗を競い合ったそうだ。

小学校高学年になると、翔栄は群を抜く強さをみせ、出場するほとんどの大会で優勝した。

そして、いつかは追いつき追い越したいと思って晴山塾で一緒に練習をしていた同年代の子達も、中学校への進学などを機に晴山塾から去っていった。

また、翔栄が小学6年生になると、学年が4つ上の兄・雄大は中学卒業を機に、親下を離れキックボクシング ジムに単身で住み込みをすることになった。

翔栄にとって、兄の存在はとても大きい。
自分の自慢は滅多にしなかったそうだが、兄の自慢は学校でもしていたそうだ。
「自分とは真逆で計画性がある。兄弟でありながら尊敬している。」と兄のことを話す翔栄。

理想の選手像は、兄・雄大だったそうだ。

翔栄がジュニアキックで群を抜いた強さを誇っていた2007年3月小学校卒業間近の時期。

翔栄は、WMFアマチュアムエタイ世界選手権に出場し、金メダルを獲得した。

この大会は、プロ選手も参加しているが、金メダルを取れる選手は少なく、兄の雄大も2回出場し、2回とも銅メダルに終わっていた。

軽量級では、特に東南アジア系やロシア系の選手たちが出場していた。

翔栄によると、一部の国からは優勝するとアマチュアなのにも関わらず、国から賞金が出るらしく、その選手達は勝利への執念が凄かったようだ。

翔栄の階級では、3人が出場していた。

外国に行き試合をするのが始めてだったため、翔栄はとても興奮していた。

一緒に同行した日本のチームでは、最年少だったためよく遊んでもらったそうだ。
大人、3〜4人に手足を掴まれ、足も付かない深さ2mほどのプールに投げ込まれ、溺れかけたというエピソードも話してくれた。

翔栄の一回戦の相手は、タイ人だった。

翔栄は、独特のステップから相手との間合いを詰め、攻撃をまとめ、タイ人が得意とする首相撲にも対処し、決勝へ勝ち上がった。

続く決勝の相手は、インド人だった。

「インド人とスリランカ人は、弱いと言われていて余裕をぶっこいていたそうだが、手足が長くストリートファイターに出てくるダルシムみたいな感じでびびった。」と話す。

この相手は苦戦したようだが、反応の良さと相手の攻撃をしっかり見切り、勝利した。

翔栄が獲得した金メダルは、当時日本人3人目の快挙だったそうだ。

兄の達成できなかった金メダルを獲得した翔栄はどんな分だったのだろうか?

兄に追いついたとでも思ったのだろうか?

いや、そうではないだろう。

彼は、兄へのリスペクトを忘れることはなかっただろう。

中学校へ入学

中学校に進学した翔栄は、晴山塾の塾長であり父の下で、毎日練習に励むことになる。
中学校時代には、毎月試合があるのは当たり前、下手すれば3週連続で試合なんてこともあったそうだ。

翔栄が中学1年生の夏。
熊谷コサカボクシングジムで行われたアマチュア大会に翔栄は出場した。
その相手は、中学2年生の井上尚弥選手だった。

翔栄は、その試合に判定勝利した。
当時の記録が公開されていたので、見てみるとたしかにその記録が書いてあった。

井上選手の著書「真っ直ぐに生きる。」にて、このように書いてある。

スパーリング大会へ参加するようになってしばらく経ち、中学2年のときだった。
その日に参加した埼玉にある熊谷コサカジムでのスパーリング大会では、ほかの格闘技からの参加も受け入れていた。
僕の相手もキックボクシングジムの選手だった。
その攻撃はかなり荒く、僕の思考回路を狂わされ、初めての負けを喫した。
ショックだった。父は結果より内容と言っていたが、いざ実際に負けてみると、予想以上に悔しい。
それにしても専門がキックボクシング だからという前提であえてそう攻めてきたのだろうか。気持ちで勝負というのはわかるが、とにかく荒いスタイルだった。
納得いかないところはあったけど、負けは負け。それを受け入れようと思った。

翔栄は、ボクシングで井上選手に初黒星をつけたのである。
著書には、ラフファイトと書いてあるが、翔栄の反応の良さやリターンの速さは優れていただろうし、何より足腰の強さがあったのだろう。

憶測にすぎないが、当時の翔栄は、パンチのテクニックで勝利したというより、押し勝ったという表現の方が適していると思う。

しかし、同大会において、地方から来ていた高校生のボクサーと急遽試合することになり、滅多打ちにされたことも話してくれた。

同年の12月31日に、兄・雄大がK-1甲子園初代チャンピオンになった。
兄のこの活躍が翔栄の原動力になったに違いない。

雄大は本命の優勝候補だった選手を破り、優勝した。
その試合は、テレビで放映され、晴山兄弟が注目されるきっかけになった。

当時のK-1の認知力は、とても高かった。
今でこそ考えられらないかもしれないが、格闘技という枠を超え、一般の人たちにも認知されていた。そのK-1 は、立ち技打撃格闘技のキックボクシングの上位概念にもなっていた。
(K-1の衰退に関しての記事 → http://joe-kickboxing-designer.com/archives/181

そのK-1が、高校生を集めトーナメントを行い高校生で一番を決める大会が

「K-1甲子園」だった。

翔栄ものちに出場する大会。
兄の背中を追いかけていたに違いないだろう。

中学時代の敗北

天才キックボクサーの見えなかった足跡
(翔栄が中学生の時、天王台ウィラサクレックジムにて)

そんな中学校時代の翔栄に黒星をつけたのが、タイ人のムエタイファイターと総合格闘技の試合だった。
ムエタイファイターの名前は、「メック」。

会場は、千葉県の天王台にあるムエタイのジム。
多くのアマチュア大会は、ヘッドギアをつけて行われるが、翔栄とメックの試合のみ特別ルールで行われ、ヘッドギアは着用せずに行われた。

1ラウンドから、メックにミドルキックを蹴り込まれた。
そのままペースを握られ、首相撲に持ち込まれる展開が続き判定で敗れたのだった。

もう一人は、勝俣郁弥選手。
現在は、葵 拳士郎というリングネームで活躍するキックボクサーだ。

翔栄は、勝俣選手と総合ルールで2度試合をし、2度敗れたそうだ。
しかし、キックボクシングルールでも2度試合し、2度勝っている。

当時、父であり塾長は、ルールに拘らず様々な団体の試合にエントリーしたそうだ。
話があれば、プロレスの試合にも出場する勢いだった。と当時を振り返り話す翔栄だ。

葛藤

キックボクシングにおいては、ほとんど負けを経験していない中学校時代の翔栄にも反発や葛藤があったようだ。

平日は朝から中学校に通い、放課後は練習、という毎日の中で中学校の周りの同級生と自身の生活を比べ、キックボクサーになる道ではない生活への憧れがあったそうだ。

それもそのはず、学校がない土曜や日曜日も、試合がなければ練習があり、周りの同級生と遊ぶ時間は作れなかった。

そんな状況も携帯電話を持つことで、一変されることになる。
中学3年の頃に携帯電話を両親に持たせてもらい、学校外で友達と連絡を取れるようになった。

「携帯を持ったことで、大きく変わった。練習以外で家にいる時間は、携帯をずっといじってた。」と話す翔栄。

携帯電話を介しての友人とのコミュニケーションは、翔栄の輪郭を拡張し、キックボクシング以外のことに触れる時間を増やしたに違いない。

塾長・父

天才キックボクサー晴山翔栄
2009 年(左から、翔栄、晴山先生、筆者)

翔栄がほぼ毎日の練習をしていた晴山塾の塾長は、翔栄の父が務めていた。
自宅に帰ると父。練習が始まると先生になる。
父子生徒先生の関係は、想像を超えるほど重圧があっただっただろう。

練習の時間内では当たり前のことだが、空手・キックボクシング に関わること以外を話すことは、ない。

しかし、家のテレビでも翔栄の試合のビデオや、他の選手のビデオを父が流していて、そのプレッシャーからは逃れられる状況ではなかったそうだ。

翔栄の父は、25歳で空手を始め30歳で晴山塾を開いた。
父は、現在も体を鍛え衰えていないらしい。

翔栄は、父に関するとあるエピソードを話してくれた。
練習で行われる対面シャドーという、向かい合ってシャドーでのことだ。

翔栄は父との対面シャドーについてこのように言う。

強かった。他の選手の蹴りは反応できたが、父の蹴りは見えなかった。
ラウンドを重ねる競技みたいにしては、勝てるかもしれないが、一瞬の勝負だったら負ける。そう思っていた。」

父に対するこのようなリスペクトがあったからこそ、翔栄の活躍があったのだろう。
二人のKー1甲子園王者と日本チャンピオンを育て上げた、指導力は間違いなく一流だったであろう。


父と兄の背中を追って始めた空手。

超えられない壁があった幼少期。

毎日の練習。

アマチュアでのほぼ毎月の試合。

WMFアマチュアムエタイ世界選手権金メダルを獲得と兄のKー1甲子園制覇。

中学生時代での敗北。

親子・先生生徒。

前編では、翔栄の空手・キックボクシングへの出会いから中学での活躍までを振り返りながら書いた。

翔栄は、人懐っこく、気さくで好奇心が旺盛だ。
空手・キックボクシングの稽古を地道に続けていたからの活躍がだったに違いない。
正確に言えば、続けざる得ない状況にあったのかもしれない。

翔栄が、話してくれた。

「ちびっこキックの大会の時なんて、ウォーミングアップもしてないもんね。一緒の大会に出てた子供たちと、鬼ごっこしてたもんね。」

僕は翔栄の強さの秘訣はここにあるのではないかと思う。
親子・先生生徒という稽古せざえる状況の中で、どのように乗り越えていくか(もしかしたら、乗り越えようと思っていないかもしれないが)を、頭で考えないで体を動かして体現して行ったのだと思う。

翔栄は何よりその場を楽しんでいた。
周りの大人をからかい、その大人たちに遊んでもらっていた。
そういう無邪気さも、彼の魅力だろう。

後編では、Kー1甲子園王者と日本チャンピオンへの道のりを書いていく。

後半に続く


翔栄とのPodcastもぜひお聞きください。