静かに去ったエリートへ 前編

野辺広大。

20歳でチャンピオンになり、キックボクシング団体 RISEのエースとして活躍した選手である。上下に打ち分けた的確なコンビネーションを得意とし、しなやかなハイキックで多くの選手をマットに沈めてきた。

しかし、彼は引退試合やセレモニーも行わずに静かにリングを後にした。

今、彼は何をしているのだろうか。

なぜ、若くして選手からの道を退いたのか。

今回は、第4代 RISEスーパーフェザー級王者 野辺広大の選手生活を振り返り、彼の引退を紐解いていく。

出会い

彼のキックボクシングキャリアは、空手からスタートした。

野辺には、3歳年上の姉がいる。

ある日、姉と一緒に近所の極真空手の道場へ見学をしに行った。

姉は、空手を始めることになり、その流れで、野辺も空手を始めることになった。
野辺が3歳の時であった。

毎朝迎えにくる幼稚園バスに一人では乗れない日が多かった。
と当時のエピソードを振り返り、自立心を養うためという両親の想いもあったのではないかと話す、野辺。

空手を始めたのは、自分自身の意思というよりも、父からの勧めだった。
3歳での習い事は親の想いや意思というべきか、空手を始めざるを得なかった状況であったと言っても過言ではないだろう。

空手を始めて1年から2年ほどで初めて試合に出場した。
初めての試合で獲得したメダルへの喜びは、今でも鮮明に覚えているという。

小学校1年生に出場した試合の時から父と姉との練習が始まった。

野辺の父は、接骨院を経営していた。

格闘技経験はなかったものの仕事の合間を縫い、熱の入った指導をしてくれたそうだ。

試合に多く出場し始めるようになったこの時期に、野辺の幼少期のキャリアを語るにおいて、欠かせない人物と出会うことになる。

それが、野辺の通う空手道場の内弟子であった井上先生だった。

指導力に優れていた井上先生に、稽古の合間を縫い姉と二人で指導を直接受けるようになったが、その後、道場の中で定期的に試合に出場しているやる気のある子供達を集めて週に一度か二度、強化練習を開催することになった。

練習は夜8時から始まり、夜中の2時まで稽古が続く日もあった。

当時の空手道場にて (向かって左が野辺)

練習メニューは、攻撃の受け返しの繰り返しを主にした対人練習であった。
野辺はこの練習を通して組手における受け返しの基本を忠実に身に付けた。

井上先生の指導は、感情を表に出す指導方法ではなかったが、淡々と続く練習はとても厳しかったそうだ。

野辺の母も、見てられないほど厳しい日もあったという。

対人練習の積み重ねは、キックボクシングにおける相手との攻防の素地を作り上げたに違いない。

顔面のパンチを禁止されたフルコンタクト空手の大会には、2ヶ月に一回ほど出場した。

ほぼ全て、トーナメント戦だったそうだ。

空手の基本稽古は、週に2回ほど、井上先生との稽古が、週に2回、それに毎朝の父との練習。さらに、放課後になると父の代わりに野辺の祖母がミットを持ってくれていたという。

 

「おばあちゃんは、僕達(野辺と姉)が歳を重ね体重が重くなり威力の増すキックを受け続けてくれた。本当はきつかったんじゃないかと思うんだ。」と当時を振り返り話してくれた。

 

小学四年生の頃から、荒川区にあるウィラサクレックムエタイジムに通うことになった。

野辺が、小学4年生の頃といえば、K-1 World MAX にて、ブアカーオ・ポープラムックが魔裟斗を破り優勝し、ムエタイの強さを証明していた頃である。

 

当時のK-1は地上波のテレビでゴールデンタイムで放映されており、認知度や影響力は現在とは比べ物にならないほどであろう。その理由の一つは、K-1が日本に存在していた多くのキックボクシング団体の上位概念を確立していたからかも知れない。

 

ムエタイジムの練習は、団体練習ではなくトレーナーがマンツーマンでミットを持ってくれるなど、空手の稽古とは違った楽しみがあったそうだ。

 

ムエタイの練習を始め、顔面への攻撃が認められたルールでの試合に出場し始めたのもこの時期だったそうだ。

 

ムエタイの試合では、慣れない首相撲に苦戦したそうだが、徐々に対応していった。

キックボクシングへ転向

 

中学校に進学するにあたり、キックボクシングへの道を志すようになる。

 

幼少期に姉と一緒に始めた空手

父に連れられて始めたムエタイ

 

これまで、自分の意志では決めてこなかったが、

キックボクシングは、自分の意志で始めたと話している。

 

それは、テレビ画面越しで強さを求め戦っている選手たちへの憧れだったそうだ。

「大きな舞台で戦いたい。」

この想いが、野辺を突き動かした。

 

野辺と父はキックボクシングのジムを探すために、都内のジムを回った。

 

最終的に決めたのは、新宿区にあるAJパブリックジムだった。

 

当時の AJパブリックジムには、全日本キック(当時のキックボクシングメジャー団体)で活躍する多くの選手がいた。

 

バンタム級の九島、ミドル級の江口、ウェルター級の山内、ヘビー級の木村、そして後のRISE王者になる吉本。そのほかにも、活躍している多くの選手がいたそうだ。

 

練習中の雰囲気が、ジムを決めた大きな理由だった。

 

中学校に入学し、埼玉の自宅から、十条にある学校とジムのある大久保を往復する日々が始まった。

 

入学した当初は、十条まで電車で行き、放課後その足で大久保に向かっていた。

しかし、他の選手がまだジムにおらず時間を持て余すことがわかったため、一度帰宅し、1時間のロードワークを行ってからジムに向かうことにした。

 

中学生の野辺は、夜の7時半から行われるアマチュアクラスに参加し、その後に行われるプロ選手たちの練習にも参加していた。練習は、月曜から金曜まで行われ、練習が終わる頃時計の針は10時を回っていた。

 

夜遅くまで練習に励む息子を気遣ってか、野辺の父は、仕事終わりに都内のジムまで車で毎日迎えに通ったという。

「キックボクシングに転向してから、父からの助言は少なくなった。」と、野辺は話す。

毎朝の父との稽古も、キックボクシングに転向してからはなくなり、指導方針はジムのトレーナーに全て任せていたという。

 

当時、AJ パブリックジムで野辺を指導していたのは、

江口(ミドル級のトップ選手で、後のSTURGIS新宿キックボクシングジム代表)、中島(全日本キックフェザー級の名選手であり、後にキックボクシングアカデミーROOTS 代表として独立)、ヌンサヤーム(ムエタイ最優秀選手賞受賞の正真正銘の超一流選手であり、日本においても名トレーナーとして数々のチャンピオンを輩出)だった。

 

恵まれた環境でキックボクシングの練習を行っていたのは誰がみても明らかだろう。

 

キックボクシングに転向した野辺の主戦場は、新空手といわれる顔面への打撃が許されているグローブ空手だった。新空手は、空手着を着用し畳で試合が行われる。

さらに、腰より上の蹴りの本数に規定があり、その面においてキックボクシングとは違ったルールではあったが、当時の全日本キックの登竜門として多くの選手が出場していた大会であった。

 

野辺は、2ヶ月〜3ヶ月おきに開催される、新空手の交流大会に出場し試合経験を積んでいった。

 

「天才キックボクサーの見えなかった足跡」でも取り上げた、晴山翔栄とも新空手の舞台で2度対戦している。

 

全日本新空手道選手権大会において、中学2年の時には翔栄に敗れ優勝できなかったものの、翌年の春に行われた同大会において、中学2・3年生60キロ以下の部で王者に輝いた。

 

©️新空手

 

2010年5月3日 場所:東京武道館

 

時間を少し戻す。
2009年、野辺が中学2年生の時にある事件がきっかけで所属していた AJ パブリックジムは閉鎖された。この閉鎖に伴い、所属していた多くの選手たちは他のジムへ移籍していった。

突如のジム閉鎖は野辺を混乱させたであろう。

しかし、10代の多感な時期に多くの大人達に囲まれ練習していた野辺はキックボクシングの技術だけではなく、人としての自立心も大人とのコミュニュケーションを通して育んだに違いない。

プロ転向

高校に進学した野辺は、2011年のTOKYO DOME CITYホールで行われたRISE 85にて、プロデビュー戦を行った。

アマチュア時代から注目されていた野辺は、キックボクシング団体 RISEのビックイベントの前座の試合に抜擢されたのだ。

 

相手は、当時RISEスーパーフェザー級王者だった小宮山工介の弟として注目を集める、小宮山夕介だった。

 

試合は、1-0 でドローに終わったが、一人のジャッジは野辺を支持しており、試合内容的には将来の王者になる野辺の実力を証明することになった。

前座の試合といえど、大舞台でのデビュー戦はその後の野辺のキャリアにおいて大会場での特有な雰囲気に呑まれないためのいい経験になったことは確かであろう。

転機

 

その後順調に勝ち星を重ねていったが、5戦目以降4戦連続で勝ち星から遠ざかっていた。

●【2R2分19秒 KO】 平塚大士(チームドラゴン)
△【3R判定0-0】 闘士(池袋BLUE DOG GYM)
●【3R判定0-2】 羽田大輔(K&Kボクシングクラブ)
△【3R判定0-1】 下 丈一朗(TARGET)

efight 選手名鑑一覧より

 

このスランプを抜け出したのが、

2014年3月のに行われたRISE 98  vs 耀織(Y’s glow) 戦からだ。

 

野辺は、この試合から長年通っていた大久保のジムを離れ 1-siam gymを名乗り、AJ パブリックジムの先輩であり、日頃から野辺の練習をみていた当時RISEスーパーライト級チャンピオン吉本、名トレーナーのヌンサヤームとチームを組み試合をするようになったのだ。

 

実はこの試合、野辺は万全な状態でコンディションを整え計量をクリアしたが、相手は計量にすら現れず、試合は行われずに野辺の不戦勝となった。

異例の事態に拍子抜けした野辺であったが、この試合以降、RISEのリングで7連勝を飾りチャンピオンへと勢いづいていく。

勉強との両立

ところで、学生生活の方はどうであったか。ということにも触れておきたい。

それは野辺が中高大一貫校に進学し、資格試験のため長期離脱を決めたのも彼のキャリアを語るにおいて欠かせないからである。

 

高校に進学し、プロのキックボクシング選手になった野辺。

練習に専念していたこともあり、ほとんど学校の勉強に集中してこなかった。

定期テストの学年順位では、常に下位を争っていたそうだ。

 

しかし、志望学科の内部進学をするための評定平均が足らず、高校3年の夏から必死で勉強に取り組んだ。

下位を争っていた定期テストの順位は、クラスで一番になるほどになった。

そして、野辺の希望する学科にも無事内部進学が決定した。

後半に続く

 


 

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